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【連載:仏教×スポーツ No.1】スポーツに活かしたい仏教の3つの考え方

スポーツはフィジカルだけでなくメンタルの部分も問われるのはアスリートにとっては常識。

ただ、「メンタル」という外来語と「精神面」という日本語を比較してみると当然ながら文化的背景が異なってくる。もはや現代ではスポーツも科学の時代で「精神性」や「精神面」という言葉を使った時、どうしても根性論や感情論と結びついてしまい敬遠される傾向にある。

そこで今回は「日本人の精神性を探り、日本人の視点から改めてスポーツに向き直ってみるという趣旨」で、臨済宗円覚寺派冨士山正福寺の住職、松原行樹さんに「仏教からみるスポーツ」についてお話をうかがった。(※1)

仏教とスポーツ

ーー仏教においてスポーツというのはどういった位置づけなのですか?

そうですね、敢えてスポーツと結びつけるのであれば、禅の教えである「無心」との共通点があるものと言えるのではないでしょうか。

あらかじめ決められたルールの中で、いま・ここ・自分が余計なことを考えず、なすべきことをしていく。経典に「揺らぐことなく、動ずることなく、よく見究め、実践せよ」とありますが、今日なすべきことを明日に延ばさない、今やらなければならないことを後に延ばさない、やりたいことよりも今やらなければならないことを実践しなさい、ということだと思います。

スポーツの試合でも、今やるべきことは球技でいえばボールを追うことであり、家族や恋人のことを考える時間ではないでしょう。

ひたすらボールを追うことが自分のためになり、チームメートのためにもなり、見る側にも感動を与えるのではないでしょうか。

そういう意味からすると、スポーツに限らずとも、何かに打ち込むということは、人生にとって非常に大切なことだと思います。

相手に求めるのではなくて、自分に求めていく。

ーーそういえば「以心伝心」という言葉は禅宗由来の言葉と聞いたことがあります。

会話に頼らなくても心が通じ合うことを「以心伝心」といいます。

元々の意味としては、禅の教えが師匠と弟子の間で、経典の文字や言葉を頼りとするのではなくて、悟りのこころそのものを師匠が直接弟子のこころに伝えることです。

「心を以て心に伝う」と書きますね。親子や恋人同士、そして夫婦間、スポーツでいえば選手と指導者の関係においても、言葉が足りなくて衝突することがあります。

どんなに多くの言葉を伝えても、それが相手に通じないときもあります。例えばあなたがとても美しい景色を目にして、それを友人に伝えたとしましょう。「とてもきれいだったんだよ」「至るところ紅葉で、赤と黄色のコントラストが最高だった」と言っても、行っていない人からみれば頭で想像する他はありません。

実際に行った者同士がわかり合えることであり、やはり言葉で伝えることには限界があります。同じように団体スポーツにおいても、競技にもよるでしょうが、競技中にゆっくり相談しながらプレーするということは中々できません。

自分がどうすればいいのか考える

先日、リオオリンピックでバドミントンの高橋・松友ペアが見事金メダルを獲得しました。インタビューの中で、「プレースタイルも生活も違う二人がなぜ衝突しないのか」という質問を受けたとき、松友選手は「状況を良くするために、自分がもっとできないかなと思えないこと自体がおかしい」と話していました。

また、高橋選手も「松友がこういうプレーをしてくれないから・・・と考えるのではなくて、(中略)私がどんなふうにネット前の球を触れば、松友が前に出られるようになるのかなと考えました」というようなことをコメントしています。

「何でこうしてくれないんだ」と考える前に、「自分がどうすればいいのか」と自分のこころを相手に伝えようとすることが大切だと思います。相手に求めるのではなくて、自分に求めていく。

相手の立場に成り切るといってもいいでしょう。しかしこれは一朝一夕にできることではありません。競技中に会話をする時間は限られているでしょうから、やはり普段からコミュニケーションをよくとって、共通の目的は何なのかを明確にして練習していくことが不可欠だろうと思います。

その積み重ねの先に「以心伝心」の境地があるのではないでしょうか。

日本人の道具を扱うこころを大切に

ーー道具を大切に扱うというのは日本人のもつ特性だとも思います。これらの精神性と仏教には関連性はあるのでしょうか?

経典に「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)とあります。「すべての生きとし生けるものには、悉く仏性がある」と。仏性というのは、仏としての資質、働きのことです。

これにボールやバット、スパイクなどのスポーツ用品が含まれるかは色々意見があるようですが、私は道具類にも仏性があると思っております。

道具類が作られるのも、多くの過程を経て作られます。そこに人のこころが含まれることもあれば、水などの自然の恵みも含まれると思います。それにバットなら打つという働きもありますし、スパイクは人を走らせるという働きもあります。ですから、道具類にも仏性があると思うのです。

大リーグ・フロリダマーリンズのイチロー選手は、道具を非常に大切にすることで知られています。四球を選んだときも、バットを放り投げないでそっと置きますし、管理も怠らないようです。

湿気で重さが変わらないようにジュラルミンケースの中に除湿剤を入れて持ち歩いていることからもおわかりだと思います。これはバットにも仏性があるという、イチロー選手の仏性の働きがよく出ている習慣だと思います。

それに道具を大切にするということは、道具を作った人やものに対しても大切に接しているのではないかと容易に想像できます。イチロー選手のようなプレーはできなくとも、せめて道具を大切にするイチロー選手のようなこころに、私たちも学んでいきたいですね。

次回「仏教視点で考えるスポーツの現場」に続く

臨済宗・禅宗の紹介

(※1)臨済宗・禅宗とは

禅宗というのは、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗のことを指し、臨済宗だけが14派に分かれている。派によって若干の作法や風習の違いはあるが、一般の方に直接影響を与える違いはほとんどない。

臨済宗の有名な寺院や禅僧として、とんち話で有名な一休さんは臨済宗大徳寺派の僧、水墨画で有名な雪舟は京都の東福寺や相国寺(しょうこくじ)で修行した。

また、禅の教えをインドから今の中国へ伝えたのが達磨(だるま)大師であり、選挙の時の当選時に筆でダルマの目を黒く塗ることでも有名。寺院に目を移せば、金閣寺や銀閣寺は臨済宗相国寺派の寺院であり、枯山水の石庭で知られる龍安寺も臨済宗妙心寺派の寺院である。

松原氏は臨済宗円覚寺派の僧侶にあたる。鎌倉時代に元国が2回攻めてきたいわゆる元寇において、その時に亡くなった両国の多くの死者を敵味方区別なく弔うために、時の執権北条時宗公によって建立されたのが、鎌倉の円覚寺である。